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<バイオリン上達への近道>
(6) 我が石塚勉先生のこと

いよいよ我が石塚勉先生のことを書ける幸せな時が来ました。このお話は単なる思い出話ではなく、この中に必ず何かみなさんの参考になることが潜んでいるように思うのです。

私のバイオリン人生でも、最も大きな出来事は、大学2回生の時に、ひょんな事から、家から散歩の距離に住んでおられた石塚先生を知り得たことでした。そのころ、私は大学オ ーケストラの部室にころがっていたカールフレッシュの「バイオリン演奏の技法(上)(下) 」やフーゴゼーリングの「最新バイオリン教本ー教師用」とかの本を読みながら、我流で奮闘していました。そしてまたちょうどそのころは「鈴木の指導曲集No.4」のビバルディがど うしても弾けず、スランプでした。確かあの曲で、終曲部分の細かいパッセージの部分が何回やっても引っかかっていたんです。先生のお宅を初めて訪ねていったとき、先生はお留守で奥様が出てこられ、「センセは今留守だから、今度の日曜日に何か得意な曲をもってい らっしゃい。」とおっしゃったことを覚えています。そして今の自分の実力を知って貰うのだから、と例のビバルディを持っていきました。案の定めちゃめちゃな出来で、「あーやはりザイツにすればよかったか。」と後悔していたところ、「なかなかいいよ。我流ではこう はいかない。」と意外なお褒めの言葉。「右肘が前後に動かず、弓と弦がほぼ直角であったこと」が評価されたのでした。「でも、音程がちょっとね。」ということでした。しかし晴 れて入門を許され、次回の練習は1stポジションの音階練習から始まったのでした。

で、この音階練習ですが、先生が横で一緒に弾いて下さるのです。その音程が全く先生と合わないのです。「あっそれ高い。あっ今度は低い」とさんざんでした。やっと先生が横で弾いておられるのが分からない程ぴったり合うまで3ヶ月位かかったように思います。と思うと次はもう2オクターブの音階です。その頃の教本は音階とウォールハートで、曲は何を したか全く忘れています。ダンクラの6エアバリエだったかも。とにかく先生に横で弾かれ、色々言われてさんざんな目に遭うと、たっぷり冷や汗が出、1時間ほどのレッスンがすむと本当にぐったりでした。すると奥様がおっしゃいます。「三宅君!ビール飲む?」「エッ !?ハイッ!」と言うわけでレッスンの後、ビールを飲ませていただけるのでした。

また、その時のビールのおいしいこと! 私は日曜日の夕7時がレッスンでしたがそのまま10時ごろまで居座り、同じ大人の生徒さん達と一緒に楽しくだべり、そして帰るときは割合近所なので散歩がてら先生と一緒におうちを出るのです。そして途中で、喫茶店に寄ってコーヒーを飲みながら色んなお話を聞くという具合で、家に帰るのは大体11時と言ったところでした。先生は良く「今いいこと考えて居るんだ。」とおっしゃっていました。それがどんなことか実現しないまま先生は逝ってしまわれたのでした。しかしこの「常にいいこと を考える」というのはいつの間にか私の座右の銘となっていました。とにかく、先生は非常に鋭い耳をお持ちで、若い頃から人に「嫌がられていた?」そうです。私は生まれて初め てプロの音を間近に聞いたと言うこともありますが、先生のすばらしい音色には本当に圧倒 されていました。なにかこう熱いモノがその愛器(ヴィヨーム)からほとばしるようなそん な感じがしました。そして、テレビなんかの名手のバイオリン演奏に合わせて、どっからで も入って一緒に弾いて遊んでおられるのを見て、ほんとにただただスゴイナァと思うばかり でした。レッスンに行くと時々、前の人のレッスンが早く終わったらしく、先生一人でブラ ームスのコンチェルトを弾いておられるのを、ふすま越しに聞き入っていたものです。先生からはとにかくたくさんの楽譜が渡されました。1年ぐらいたったとき、ビオッティ、 ローデとかの曲がばんばん渡され、恐ろしい位遅いテンポで、一緒に弾いていただくという もう汗だくのレッスンでした。その頃のレッスンはまず3オクターブの音階練習から始まり、 カイザー、クロイツェル、ローデとかの教本から何曲か弾き、ビオッティを弾くと言う感じ でしたから、今考えるとかなりビッチリやっていたんだなと思います。ビオッティやローデのコンチェルトは、やっと3rdポジションが安定しかかってきた程度の私の実力では全く弾けるわけはなく、それも全楽章必ず弾くのです。それも先生も一緒に弾いて下さるのです。 もう、本当に汗だくでした。心の中では「もう許して」と叫んでいました。そしてその曲が終わるときは、別に弾けるようになったから終わるのでもないのです。「ウンッ!、ジャア 次はこれだ!」って具合にある日突然、曲が変わります。教本の方も、私の弾くのをじっと聞いておられたかと思うと「ウンそうだ。あれがいい」とおっしゃって、違う教本が目の前 におかれるのです。今から考えると、恐らく私の問題点に合った曲をとにかく「弾く」「場数を踏む」「経験する」ということに重点が置かれていたように思います。ホント先生の頭 には、あらゆる教本のあらゆる曲が整理されていて、生徒の問題点を観察する内どの曲を練習すればいいのかがひらめいていたのではないかと思います。事実、ある頃から私の音がガ ラッと変わったことが分かったことがありました。オーケストラのある人は「男性的な音」 になったと表現してくれました。 ビオッティ・ローデ等の曲は、私の実力より遥かに上回っていたのにも関わらず、とにかく「ゆっくり最後まで弾く」というやりかたです。当然無惨な結果に終わるわけですが、先生の「まあ又いつか弾くときにはうまくなっているよ」 という言葉が妙に印象に残っています。この言葉に何かヒントがあるように思うのですが、明確には分かりません。どういう教育方針だったのでしょうか。どんどん「ためになる」楽譜を渡し、超ゆっくりと弾く。この初めから終りまでゆっくりと弾くというやり方は、先日ここに書いた練習方法に似ているとはいえます。いや、今気がつきましたが先生はそのつもりだったのかも知れません。しかし、少しテンポを上げるという気配は全くありませんで した。ただひたすらゆっくりと次々に新しい曲を弾いていくのです。そのおかげで私の本棚には、見る見るうちに楽譜がたまっていきました。どれもこれも、散々な目にあったという思い出しかない曲達です。しかし、その楽譜達を見る度に何かしらある種の幸福感を感じるのも確かでした。「いつか弾けるときが来るかもしれない。」という希望・夢と言ったモノだと思います。ひょっとしたら、私が経験した「我が人生最大の興奮」は先生の遠大なレッ スンそのもので、実はそうなることは先生の予想にあったのかも知れません。いや今これを書きながらきっとそうだと思えてきました。そうです、先生のレッスンはいまだに私の心の中で続いていたのでした。これは、私がバイオリンを手にする限り、何時までも続くことでしょう。それにしてもよくまぁ私の横で、私がゆっくりと弾くのに合わせて横で弾いて下さ ったものだと今更ながら感心します。先生は苦痛ではなかったのでしょうか。先生は、私のたまに発する質問に対し、ある時おどけてこんなことをおっしゃいました。「あたしゃ、そんなこと聞かれてもわかりゃあしないんだよ」と。すると奥様が横からまたおっしゃるんです。「三宅君、あかんあかん。センセはそんなことわかりはれへんのよ。」私はどうい うことか状況が飲み込めなくて、妙にどぎまぎしたことを覚えています。それは今になれば分かることですが、先生は子供の頃から何の苦労もなく、勝手に弾けてきたので、私の苦労 など理解できないのです。そんなに天才でなかっても、子供の頃から苦労して訓練を積んで来た方でも、「貴方は何故弾けるのですか」と聞いても答えられないのだから、才能があっ て弾けるようになった人に答えられるはずがありません。(前にもこんな事書きましたが、尤も「あなたは何故弾けるのですか。」と本当に質問するバカはいません。)ところが驚いたことに、奥様は大人から始め、プロになった方だったのでした。軍人の家に生まれ、子供の頃からいやなお琴をやらされたそうです。大人になってから俄然バイオリンをやりだして苦労されたとかで、私には、奥様の解説の方が言葉として良く理解できたように思います。

みなさんのご参考に、苦労された奥様語録のいくつかをご紹介しましょう。
その1.ボウイングの手首の返しを練習するには、手の甲にマッチ箱を載せ、落ちないように曲を弾く。
その2.右肘を後ろに引く癖がある場合は、壁にもたれて弾くことによって感じを掴む。
その3.指弓は鉛筆を持ってでも練習出来る。
その他何かあったように思いますが思い出せません。

実際奥様は非常に頭の切れる人で、根は優しい方なのですが言葉がキツイ。思ったことを ズケズケと言う感じで、「三宅君。あんたはまだ”お生徒さん”よ。お弟子さんとは言われ へんわねぇ。」なんてよく言われました。しかし結構可愛がってもらっていたって感じで、 上記のような練習の仕方などの話もよくしてくださったのです。尤も、先生はその話を横で 聞きながら「ワシャわからんよ。」と独り言をおっしゃっています。また、先生のおうちには若いバイオリン製作者が良く来ていました。ある有名な楽器商の工房の方達でした。その方達が一様におっしゃるのは、先生は楽器を生徒に買わせるとき、いわゆるリベートをとらない数少ない先生の一人だったそうです。「その分安くして上げて」といわれので、楽器屋としてはホントに手強い相手であったという事です。今私が使っている愛器もカールヘフ ナーではありますが、そこそこ上等な楽器を奥様が交渉して安くしていただいたのでした。 だから今その楽器商の工房へ持って行っても、その仕事の丁寧さに感心され、「カールヘフ ナーにもこんな楽器があるのですね。大変勉強になりました。これは下手なオールドよりは るかにいい楽器です。」と言われたぐらいです。また更に、その頃先生の所に遊びに来ていた方々の名前を出すと、大変驚かれます。その方達はもうとっくに独立されていますが、今や神様的な存在になっておられるのです。先生はいつも「私は町医者だよ」っておっしゃっていたのですが、単なる町医者ではありませんでした。私がレッスンに通い始めていた頃、ふすまの向こうから先生の音とはまた違うすばらしい音が聞こえてきたことが良くありました。誰かと思えば小さいかわいい小学5年の女の子でした。その子は3/4のバイオリンとは 思えないようなすごい充実した音を出すのです。そんな子は私が知る限り二人いました。後で知ったのですが、その子たちは二人とも桐朋学園に入り、しかもその内の一人は17才で 毎日コンクールで優勝してしまったのでした。残念なことに、先生の死後でした。先生が亡 くなられたのは、私が先生に初めてお会いしてから約5年後のことで、先生もまだ50才代の若さでした。そしてその後、あっと思うほど髪の毛が真っ白になってしまわれた奥様が亡 くなられたのは、それから約1年後でした。こんな訳で、石塚先生とはそんなに長いお付き合いではなかったのですが、未だに私の心の中に生き続けておられます。しかし考えて みると、先生の経歴のようなことは何一つ知りません。ジンバリストに認められ、ドイツへこないかという話があったが、気の小さいところのある先生には決心が付かなかった、とか言う話を聞いたことがあるという程度です。だから、私がレッスンを受けたのは実質3年ぐらいだけでそれ以降30年以上は我流と言うことになります。