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前回では、佐々木基之氏の著書 「耳をひらいて心まで」分離唱のすすめ と「耳をひらく」人間づくりの音楽教育をご紹介しました。
今回からは数回にわたり、これら本の内容を詳細に引用しながら分離唱とはいかなるものかをご紹介して行きたいと思います。尚、この引用に付きましては、著者が既に他界されていますので、奥様のご了解ご承諾を頂いてますことを最初に付け加えさせて頂きます。
1) 分離唱の誕生
この本の著者の佐々木基之氏は戦前、東京の小学校で音楽を教えておられました。 当時の小学校の音楽教育と言うのは、せいぜい学校行事で歌う唱歌を教えるぐらいのものだったようです。氏はそのような教育に飽き足らず、なんとかして子供達に音楽の喜びを教えたいと思っていたさなか、友人の園田清秀氏(ピアニスト園田高弘氏の父君)が始めたピアノ個人指導における聴音訓練を見学する機会を得て深く感動され、それを小学校の集団授業に応用したいと思案しながらふと行ってみた作業に、「分離唱」と名付けたのだそうです。
氏はこの分離唱を創案したときの様子を次のように書かれています。
♪♪♪
(引用ここから)
・・何とかしてクラスのみんなを同時に音楽の世界へ連れ込まねばならぬ。どうすればいいのだろうか・・・その時、ふとひらめいたんです。ひょっと思いついたというべきでしょうか。私がピアノで和音CEG(ハ長調のドミソ)の和音を鳴らしながら、E(エー)と中の音をうたって生徒達に真似をさせたのです。これが分離唱の誕生でした。下の音のCや上の音のGからやらずに、いきなり和音の中の音のEから始めたこと・・・今思えばこれがまさに神の啓示だったのです。CEGを弾きながら「E(中の音)をうたえ」「G(上の音)をうたえ」「C(下の音)をうたえ」と始めると、敏活な作業に生徒達は目を輝かせてついてきました。CFAもHDGも混ぜて、まず三和音に含まれる七つの音のどれもぱっとうたえるように訓練していきました。そして次に、全員を三つの組に分けて、その三つの違った音、上中下の音を同時にうたわせてみたところ、三つの音が調和して響く子供達の声の美しさに、私は感動で全身がふるえ上がったほどでした。
それからの毎日は、まさに感激の連続でした。私は、毎週一曲ずつ三部合唱の材料を編曲するのに夢中でした。生徒達は、黒板にチョークで書いたのを初見でハモり、45分の授業で見事に歌えるようになりました。ベルが鳴って教室に入っていくと、私はすぐに「はい、G(ゲー)」と言います。皆が待ってましたとばかりに一斉にG(ゲー)の音を歌います。わぁ、これはすごい、私はうれしさを押さえながら次々と指示を与えたものです。廊下に子供達を集めて「海ゆかば」(Hide注:戦前によく歌われた唱歌の一つ)と言うと、ピアノで音もとらないのにC
durで一斉に歌いだす。もう最初の音を与えなくてもD durでもEs durでもすぐにぱっと歌える様になったのです。これがもし、移動ド唱法を身につけた人たちだったらこうはいかないだろうなぁ、
と私は感嘆したことでした。
(引用ここまで)
♪♪♪
(Hide記)
いかがでしょう。私は、こんなことが実際に目の前で起こったとしたら、私もさぞかし興奮したであろうと思いました。何気なく気軽に行った分離唱に続いて起こった数々の現象、
氏はこれを見逃さず今後効果的な音感教育法へと育てて行かれることになるのです。しかもこのお話は戦前のお話なのです。斉藤秀雄氏が聴音を取り入れた「子供ための音楽教室」を、鈴木鎮一氏がヴァイオリンによる「才能教育研究会」を開いたのは戦後直後のことだったし、ヤマハ音楽教室が絶対音感教育を取り入れた「幼児のための音楽教室」を開設したのももう少し後年のことでした。ですから戦前の小学校でハーモニーを原点においた音感教育の授業というのは、まことに画期的なことであったのではないかと推察できます。そして更に、合奏する私達にとって好都合であったのは、それが集団を教える場で創案されたと言うことです。
氏は、ふとひらめいた、と書いておられますが、私にはまことに神がかり的な奇跡が起こったとしか思えません。 私には、このことは、氏が16歳のときに受けたハンド・ヒーリングで一命を取りとめ、よくもって5年から10年と宣告された難病を克服して95歳の長寿を全うされたことと、無関係ではないような気がしてならないのです。そして、氏の「分離唱のために神に生かされているのだ」という生涯を通じての思いは、このことを思い返したとき初めて理解できるような気がします。
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